sh_universe’s blog

広島県在住。メーカー研究職。1児の父。

2ばかりが並ぶ日に

今日は2022年2月2日、2ばかりが並んでいる。

明日は2月3日、節分の日だ。妻から、今年も恵方巻きの準備してないけど、ごめんね、と申し訳無さそうに言われた。

もともと実家では恵方巻きを食べる習慣はなかったから大丈夫だよ、と言うのと同時に、豆まきの記憶がよみがえってきた。

楽天的で明るい性格の母親に促されて、戸惑いながら家の外や部屋の中に向かって豆を投げつけた。後の掃除のことも考えずに。小学校3年生くらいだっただろうか。我が家には、鬼役はいなかった。

鬼の格好したら、もう分かって豆投げるんじゃない?と妻は言った。そういえば、節分に向けて豆を投げる練習をしたと保育園に写真つきで貼り紙がしてあった。もう前日になってしまったけど、豆と鬼のお面を買ってくるということが頭の中にはなかった。

保育園に連れて行くなどのルーティンをこなすのにいっぱいになっていて、子どもが何ができるようになっているのか、何をしてあげたらいいのかを考える余裕がなかったのかもしれない。最近は残業も多くてなかなか心にも余裕が持てていない。これは少し反省しないといけない。

そう思い詰めていたら、子どもは相変わらずクルマのおもちゃで夢中になって遊んでいた。

2021年の抱負、のようなもの

気がついたら子どもが生まれて10か月になっていた。

子どもが生まれたら子ども中心の生活になることは分かっていたし、それは常識的なことではあるけど、当事者として経験するとなかなか大変なものだ。

もともと家事は妻と分担することにしているので、どちらかが子どもの世話をしているときには、もう片方が炊事や洗濯、掃除をするなどして日々の雑務をこなしている。

そうすると、自由な時間は平日で30分、休日でも2、3時間しかない、それが体感的なイメージといったところだ。

そんな生活をしていて、さらにコロナウイルス感染症の影響で外出がほとんどできないこともあって、自分の趣味といえるような時間をほとんど過ごしていない。

最近になって、映画を観る、スキーをする、バイクや自転車で走る、写真を撮りに出かけるといった、自分が趣味としてしてきた数々のことは、一人の暇な時間を謳歌する程度のものでしかなかったのだと悟った。これは、自問自答を繰り返した末にたどり着いたのではなく、いまの自分の生活にを見つめ直したときに、自ずと得られる結論だった。

もちろん、世の中には家族がいても趣味や特技に時間を割いている人はたくさんいる。しかし、自分にはそこまでのモチベーションを持って取り組む趣味やライフワークといえるようなものはなかった。(だからこそ、そのような熱意を持っている人のことを、心から尊敬する)

例えば、楽器演奏や歌唱をしている動画をYou Tubeにアップすると何万人もの人が視聴してくれるとか、地域の絵画教室でボランティア活動ができるとか、スポーツで大会に出て好成績を収められるとかいったような、何らかの価値を生み出せるものであれば、家族と過ごす時間を削ってまで取り組む意味があるかもしれない。しかし、自分にはそのような才能も実績もない。

その結果、仕事と家事と育児の合間の時間も、Twitterはてなブックマークを眺めて過ごすような生活に落ち着いてしまっているのだろう。

とりあえず今の仕事は続けられているが、会社もいつまで安泰か分からない、自立できるスキルや実績を求めて勉強に取り組む人も多いこの世の中で、自分はこのまま仕事を続けていていいのだろうか、仕事にそのまま繋がらないとしても、何か自分にできることはないか、そんなことを漠然と考えるようになった。

そこで、一つの決断をした。4月から、自動車整備士3級ガソリンの講習に通い、資格取得を目指すこととした。

半年の間の土日に、合わせて100時間以上の実技と学科の講習に通わなければならない。

ただでさえ貴重な家族と過ごせる時間を削って講習に通うのは辛い決断ではあったし、妻にも理解してもらえるかは不安だった。しかし、上記のような不安を以前に打ち明けていたことと、普段の様子を見ていて、子どもを大事にしていることはよく分かっているという理由で、妻は背中を推してくれた。

別に自動車整備士として働くことを目指している訳ではないし、この資格があるからといって直ちにキャリアアップが見込めるようなものではないけど、今の自分のスキルや知識を、資格という形にできることと、一つのことを体系化して身につける経験を通して、少しは不安を払拭して自信につなげられればいいと思う。

子どもも、少しずつ目を離せるようになってきたので、空いた時間を何もせずに過ごすのではなく、少しくらいはここに記事を書いて投稿するような、能動的にアウトプット(何も価値がないとしても)が伴うような行動をしていこうと思っている。

もう1月も終わってしまう。2021年を、子どもの面倒をみていて何もできなかった、という1年にしないようにしていきたい。

昨年の振り返りと,これから.

(写真は新幹線からの富士山)

スター・ウォーズ最新作を観たその勢いで感想を書いたのはよかったのだが,それが久しぶりでしかも最近の生活に関することを残していなかったことに気がついた.twitter上で知り合った方からも結婚に関してお祝いの言葉をもらっていたのに,特にそのことについてどう答えることもなく,時間が過ぎてしまっていた.

2019年の出来事

2019年は,自分の人生の中で何か特別な意味でもあったのではないかと思うくらいに,多くのことが変わった年だった.

2月に入籍し,3月に新居での生活が始まり,11月に結婚式を挙げた.

結婚後の生活

思っていたよりも時間がない

今は自分も嫁もそこまで長時間の残業もないため,遅くとも21時には帰れる生活が続いている.それでも,仕事が終わって帰宅して,そこから夕食の用意をして,洗濯,掃除などをしていると,案外平日は時間がなくなってしまう.どちらかというと私のほうが帰りが遅いので,嫁が夕食の支度をしてくれているうちに,洗濯機を回したり,干してあるものを取り込んだり,たたんだり,風呂の用意をして,食事後は,嫁に休んでもらっている間に,私が食器洗いをするパターンが多い.

日によっては,私が夕食を作ることもある.そうすると,家に帰ってからほとんど息をつく時間もなく,風呂に入って寝ないといけない時間になってしまうイメージだ.共働き世帯であればどこもこんな感じなのではないだろうか.

結婚するまでの間,二人で同居する期間がなく,いきなり新居での生活になったので,家で二人で過ごし時間ができることで,充実感が得られていると思う.

結婚式を終えて思ったこと

11月に結婚式を挙げた.式には,地元の友人,大学時代の友人,会社の友人を招待した.両親をはじめ,親戚は皆関東から当日入りで広島まで来てくれた.

招待状に返事をもらっているので当然なのだが,式の当日になっても,本当に親戚や友人が遠いところから集まってくれるのか,どうにも信じられないような気がしていた.それでも,式が始まると皆が来てくれていて,祝福の言葉をかけてくれたので,うれしいとともに安心したような感じがした.冷静に考えてみると,今までの人生で会ってきた人々が,一同に会しているというのは不思議なものだ.

夢のように幸せな時間は,あっという間に終わってしまった.それでも,この短い時間の中で,自分は多くの人に見守られ,支えられて,今日この日を迎えることができたのだと改めて実感することができた.地元にも,会社にも,祝福してくれる友人がいてくれることは何よりも幸せなことだ.私はあまり連絡を積極的には取らないタイプだったが,これを機に見直してみようと思った.

家事を分担することの大変さ

私は,性別や社会的な役割に関して固定された価値観にとらわれるのが好きではない.よく言われる言葉を使えば自由主義なのかもしれない.男はこうするべき,女はこうするべき,という考え方があまり好きではない.

それが何なのかというと,家庭での役割もできるだけ合理的に分担したいと考えているということだ.家事も二人で分担する(担当を決めるのではなく,その時々に応じて)べきだと思っているので,私も嫁も,基本的に家事は場面によっては何でもするようにしている.というか,共働きでお互いに正社員であればこうする以外にはないと思う.

自分が育った家庭はどちらかというと母親が家事のほとんどを負担していた.ただ,父親はきれい好きなので,掃除機をかけたり整理整頓をしたりはしていたが,食事の準備と片付け,買い出し,洗濯などをすべてこなしていた.

それがいかに大変なことだったかが,今の生活をするようになって実感できる.パート社員の期間が長かったとはいえ,私が高校生の頃にはお弁当も作ってくれていた.今の私と嫁には,とてもではないがお昼ご飯にお弁当を作る余裕はない.実家にいた頃は当たり前だと思っていたが,なかなかに大変なことだ.自分の母親,ひいては世の中のお母さんという存在は本当に尊敬に値する.

実家に帰省している間は家事を親がやってくれるので,どうしても自分はぼーっと過ごしてしまう.「実家にいると眠くなってくる」というツイートをしたが,買ってくるものはないか,休日のうちにやっておくことはないか,などと考えることがないので,どうしても暇になることが多いからなのかもしれない.

これからのこと

こんな場での報告になってしまうが,3月に男の子が生まれる予定だ.嫁はもうすぐ産前休業に入る.自分が父親になるというのもなんだか変な感じがするが,その日が来ればそうなるしかない.

しばらくは忙しい生活になるはずだ.もしかしたら1年くらいは実家にも帰れないかもしれない.でもとりあえずは,子どもの成長を見守っていくしかない.

そんな状況でなおさら難しいのだが,昨年は結婚して同居を始めたこともあって,プライベートで何かしたかというとほとんどないと振り返っている.どんなことでもいいから,継続的に取り組んで,自分の中でだけでも達成感を味わうことができたら,と思う,2020年の年始だった.

『スター・ウォーズ / スカイウォーカーの夜明け』感想とか ※途中からネタバレあり

はじめに(ネタバレなしパート)

私のスター・ウォーズファンとしての立場

2015年12月からの4年間は,スター・ウォーズファンである自分としては特別な時間だった.2005年の『シスの復讐』からリアルタイムでスター・ウォーズを見始めた自分にとって,2015年12月公開の『フォースの覚醒』から『最後のジェダイ』『スカイウォーカーの夜明け』と続いた今回の3部作は,そのすべてを劇場で鑑賞することができたはじめてのシリーズだったからだ.しかし,それは決して心が躍るだけの時間ではなかった.

私個人がシリーズをどのような気持ちで観てきたか,などということは,本来はこのブログを読んでいただいている貴方には関係がない話なのだが,こと今回のスター・ウォーズの3部作については,過去のシリーズをどのような気持ちで観てきたか,新作に何を期待し,何をもって満足できるのか,によって,その見え方,感想が全く変わってきてしまうと実感した.

『スカイウォーカーの夜明け』ネタバレなし感想

 私は前作『最後のジェダイ』が,今回の3部作の中で取り返しがつかないほど出来の悪い映画だったと考えている.そしてそれは『スカイウォーカーの夜明け』を観て,久しぶりに胸が熱くなり,年末年始に実家でのんびりしているくらいならもう何度か劇場に観に行こうと浮足立っている今でも変わっていない.

『スカイウォーカーの夜明け』は3部作,ひいてはエピソード1『ファントム・メナス』からの9部作を,見事な形で完結させてくれた.それでも,『最後のジェダイ』からのリカバリーという意味では,前作が最低だったところから,もっともまともな線に戻すことができた,程度のものでしかないと考えている.『最後のジェダイ』の何がそこまで気に入らないのかについてはまた別の機会に書くとして,今回は純粋に『スカイウォーカーの夜明け』の感想を述べていきたい.ただし,シリーズものである以上,前作とのつながりには言及せざるを得ない.そのための前提として,『最後のジェダイ』に対して私は上記のような感想を抱いていることをご承知いただきたい.

 

※以降、ネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

劇場に今作を観に行く前,私は気持ちの整理も込めて,下記のツイートを残していた.

 個人的には,以下の3つの疑問に答えない限り,物語として成立していないと考える.「スノークとは何者だったのか」「なぜ帝国の崩壊後にファーストオーダーが勢力をつけ,それに対し新共和国は何もできなかったのか」「結局,ルークとレン,レイの関係は何だったのか」 

この答え合わせという意味では,一応解答が得られたと思っている.

 「スノークとは何者だったのか」

パルパティーンによって,スノークの姿とカイロ・レンに聞こえていた彼の声は幻であったことが示された.

「なぜ帝国の崩壊後にファーストオーダーが勢力をつけ,それに対し新共和国は何もできなかったのか」

エンドアの戦い後もパルパティーンが生存しており(あるいは生き返って),陰でファーストオーダーを操っていたと思われる.ただし,新共和国がなぜファーストオーダーの勢力拡大を抑えられなかったのかは示されなかった.もっと言えば,新共和国とレジスタンスとの関係もよくわからないままであった.

「結局,ルークとレン,レイの関係は何だったのか」  

レイはパルパティーンの孫だった.つまり,カイロ・レンはジェダイ(スカイウォーカー家)の系譜上に生まれ,レイはシス(パルパティーン=ダース・シディアス)の血を引く者だった,つまり二人は対極の存在であった.そして,シスの末裔であるレイがジェダイを志してルークの弟子となり,ジェダイの一家に生まれ,ジェダイとなることを期待されて育ったカイロ・レンはフォースの暗黒面にとりつかれ,シスであろうと必死にもがき続ける.過去作品では一人の主人公の中に渦巻いていた善と悪の葛藤が,今回の3部作では二人の錯綜する人生を通して描かれている,と考えるべきだろう.

各3部作の主題

『新たなる希望』『帝国の逆襲』『ジェダイの帰還』

ルーク・スカイウォーカーを主人公とする『新たなる希望』『帝国の逆襲』『ジェダイの帰還』の3部作は,「家族の愛」がテーマであった.ルークの目線を通して,育ての親との死別,双子の妹の存在,実の父親との決闘,そして救済が描かれる.

ファントム・メナス』『クローンの攻撃』『シスの復讐

ファントム・メナス』『クローンの攻撃』『シスの復讐』は「師弟関係」「男女の愛」がテーマになっているというべきだろう.「選ばれし者」であると予言されたアナキン・スカイウォーカーと,彼を信頼し,たまには諫めることもありながらともに成長していくオビ=ワンの関係と,恋愛が禁止されているジェダイが,一人の女性を愛すること,そしてそれがもたらす悲劇が描かれる.

この3部作はスター・ウォーズファンの間では評判が悪いらしいが,銀河共和国が銀河帝国として生まれ変わるまでの変化を,アナキンとパドメの愛と絡めて描いたこの3作を,私は傑作だと思っている.

(もっとも,私がスター・ウォーズシリーズを見始めたのがこの3作がきっかけであり,「私にとってのスター・ウォーズ」がこの3作になってしまっているために,こう見えてしまっている可能性は捨てきれないのだが).

『フォースの覚醒』『最後のジェダイ』『スカイウォーカーの夜明け』 

そして,『フォースの覚醒』『最後のジェダイ』『スカイウォーカーの夜明け』では「個人の意志」がテーマとなっていると考えるべきだ.

上述の通り,レイはパルパティーンの孫にあたる存在だった.『フォースの覚醒』であれだけレイの出生には意味がありげな演出がなされていながら,『最後のジェダイ』では特に意味はなかったとあっさり否定されてしまった.しかし,今作でレイの両親はパルパティーンの子であり,レイをパルパティーンから守るために匿い続けたのだという説明がなされた.

人の一生が生まれにより決まってしまうのであれば,レイはシスとなる運命である.作中でも,シスの暗黒卿となった自身の姿と対峙するシーンがあった.それでも,彼女は高潔なジェダイであろうとした.

対して,ジェダイの家系に生まれたカイロ・レンは,ルークの手によってジェダイとなるための修業を受けていたが,心の中に暗黒面の陰りを見られ,ルークに殺されかけるという悲劇に見舞われる.シリーズの中でも波紋を呼んでいるこのシーンだが,これもパルパティーンが裏で手を引いていたと考えるべきだろう.

(レイアが『ベンが暗黒面に堕ちたのはスノークのせい』と語っていたが,そのスノークパルパティーンの映していた虚像であった以上,こう考えるより他ない)

ジェダイの子孫であったベンはシスとなろうとし,シスの子孫であったレイはジェダイとなろうとする.その思いは幾度となく衝突し,フォースによる精神世界での戦いだけでなく,実際に刃を交えた戦いも二人の運命の先にあった.そして,最後にはカイロ・レンの心には母・レイアと父・ハン・ソロの声が届き,暗黒面に堕ちることなく,レイとともにパルパティーンと対峙する.

パルパティーンは『シスの復讐』にて,「ダース・プレイガスは愛する者の命を救う力を身につけたが,自分の命を守ることはできなかった.あろうことか,弟子に殺されたのだ」と語っている.この弟子というのがパルパティーン本人であり,このときに不敵な笑みを浮かべていることから,パルパティーン自身はすでに死をも克服した存在となったことが示唆される.「私がシスのすべてである」という今作での台詞は,そのような意味まで含んでいると考えてもおかしくはないだろう.

そんなパルパティーンを前にして,レイとカイロ・レンは倒れてしまう.しかし,シスとして生まれたレイとジェダイとして生まれたカイロ・レンが心を一つにしたことで,表裏一体であったフォースのライト・サイドとダーク・サイドの力を身に込めたレイのライトセーバーは,パルパティーンが放つ雷をはね返した.そして,パルパティーンは『ジェダイの帰還』のラストで原子炉に落ちていったのとは違い,その身を滅ぼされるという意味での死を迎えた.これは,シスの暗黒卿が銀河から滅亡したことと同義である.

"The Rise of Skywalker"の意味

一度倒れたレイが立ち上がろうとするとき,過去に倒れていったジェダイたちの声が響き渡った.原題のタイトル”The Rise of Skywalker”の”Rise”には,「立ち上がる」という意味がある.スカイウォーカーとして,ジェダイとして,パルパティーンを倒そうと「立ち上がる」ことこそが,”The Rise of Skywalker”なのである. 邦題が発表されたとき,”Rise” を『夜明け』とした邦題にはじめは違和感を覚えた(”Dawn” であれば『夜明け』となる)が,今思うとよく考えられている.

今作のテーマ 

シスの子孫として生まれたレイは,スカイウォーカーの弟子となり,ジェダイとなり,自身のルーツでもあるシスの暗黒卿を倒そうとする.

スカイウォーカー家の子として生まれたベンは,疑心暗鬼からフォースの暗黒面へと墜落し,ダース・ベイダーと同じ道をたどろうとするが,実の父と母の思いに揺り動かされ,正義の道へと復帰する.

幼いころに誘拐され,兵士としての役割のみを求められてきたフィンは,自身の意志でファーストオーダーを離れ,自由のために戦う.

今回の3部作は,「自身が何者であろうとするのか』という意志によって,その人生が切り開かれることを示している.『シスの復讐』でパルパティーンは「運命に従っただけだ」という言葉でアナキンを暗黒面に引きずり込んだが,人が従うのは「運命」などではなく「自身の意志」である,というメッセージを,私は読み取った.

最後には,レイは自身の出生を受け入れながらも,「スカイウォーカー」を名乗った.これも,どのような生まれにあっても,自身がなろうとするものになれるのだ,なるべきだ,というテーマが込められていると考えられる.

『スカイウォーカーの夜明け』は,スター・ウォーズシリーズをこのような形で締めくくった.『最後のジェダイ』でどうなるかと思われた今回の3部作であったが,終わってみれば一つの物語として終着点にたどり着いている.「『こんなのはスター・ウォーズじゃない,こんなものが見たかったわけじゃない』といううるさいファンに迎合したせいで,いろんなものを無理に詰め込んだ映画になってしまった」と評する向きもあろうが,私はそうは思わない.『シスの復讐』を劇場に観に行った13歳の当時のように,心が躍る思いと,物語を最後まで見届けることができた充実感を与えてくれた.これが,私にとっての今回の3部作に対する思いである.

それでも,気になってしまったところ

このように,全般的に見れば『スカイウォーカーの夜明け』には満足している.しかし,それでも気になってしまう,もっと面白いものが見られたのではないか,と考えてしまう点があるので,それを書いておく.

 場面の移り変わりに強引さがある

パルパティーンがその基地を構えているのが,惑星エクセゴルであることが判明するが,その場所をたどるには「ウェイ・ファウンダー」が必要となる.その「ウェイ・ファウンダー」の場所を探す手がかりを探した結果,それはエンドアの戦いで敗れた帝国の最終兵器であったデススターの跡に残されていることがわかり,その残骸が沈んでいるケフ・バーへと,レイ,フィン,ポーが向かう.そこでレイとカイロ・レンの最終決戦の火ぶたが落とされる・・・という展開なのだが,ケフ・バーが登場する流れに違和感を覚えてしまう. 

「~するために,・・・する必要がある.そのために,・・・する必要がある」が何度もつながってしまった結果,ふと「これ,いま,何のために戦ってるんだっけ?」と思ってしまうことはよくある(『最後のジェダイ』の鍵破りを探す流れがまさにそうである).今作においても,オチの宇宙船から「ウェイ・ファウンダーの場所を示す刀が手に入るが,その文字を読み取るためには・・・」と,やたら遠回りな旅が始まってしまう.ファイナル・オーダーの攻撃が数時間後に迫っている,という緊迫感を,どうにもスポイルしてしまっているように思えてならない.

しかも,デススターの残骸から見つかったウェイ・ファウンダーはすぐに壊されてしまい,結局,物語で役割を果たしたのはカイロ・レンが持っていた片一方だけである.これでは,そもそもダース・シディアスダース・ベイダーのために二つ作られていたという設定も必要性を感じなくなってしまう.

さらに,ケフ・バーからレイはオク・トーに飛び立つが,あれほどまでにルークが隠そうとした彼の居場所に,あろうことか敵の宇宙船で向かうというレイの発想についていけなくなってしまった.過去に何度も,帝国やファーストオーダーに反乱軍やレジスタンスの居場所が見つかってしまい,痛い目を見てきているはずなのに,である.そのくせ,オク・トーから十年以上は海に沈んでいたであろうXウィング・ファイターで飛び立ったレイの居場所はすぐに探知でき,レジスタンスを率いる目印となっている点も整合性が取れていないと言わざるを得ない.ルークがフォースと一体の存在となってしまった今,彼の居場所などファーストオーダーにとってどうでもいいのかもしれないが.その割には,新しく登場した惑星も,過去作品に登場したコルサントやべスピン,カミーノ,ムスタファ―,スカリフのような個性があるものではなく,場面が変わったという印象を受けないのも物足りない点である.地球のような惑星であれば,どの場面も一つの惑星に存在していそうなレベルである.上述したケフ・バーも,大きく波がうなる海しか印象に残っていない.「違う惑星だから」という理由でどのような環境の多様性も表現できるせっかくの機会を,うまく活用できていないように思えてしまう.今までに見たこともないような世界を見せてもらえば,それこそ少年のような心に戻れたかもしれない.

重箱の隅をつつくような指摘になってしまうかもしれないが,要するに,「できるだけ多くの惑星を登場させよう」という制作側の意図が透けて見えてしまうところが,SFファンとしては残念なのだ. 

フォースの影響を拡大しすぎている

上述のケフ・バーの話にも通じるのだが,今回の3部作では,フォースによって心を通わせることができるだけではなく,身につけているものを奪う,物を瞬間移動させるといったことが可能になる場面がある.レイとカイロ・レンも何度となく精神世界で刃を交えていたため,ケフ・バーでの戦いでも,「これは本当に戦っているのか?」という疑念が生じてしまった.

テクノロジーの描き方が今一つ

上に書いた通り,フォースによってできることは過去作品に比べてどんどん増えていく.それに対して,この世界における科学技術の進歩がいまいち感じられないことも,SFファンとしては残念だった.帝国側はデススター→第2デススター→スターキラー→デストロイヤーと,惑星破壊兵器を恐ろしいスピードで進化させていくのだが,それに対する反乱軍側はまったくといっていいほど技術の進歩が感じられない.配備から70年以上が経過しているであろうR2-D2に未だに頼っているし,周りのドロイドもR2に比べて大して進歩していないようである.宇宙船もヤヴィンの戦いの頃からの進化が感じられないし,パンフレットによれば今作に登場した「タンティヴⅣに似た宇宙船」はタンティヴⅣそのものであるという.作戦基地も数十年の間開発が全く進んでいないようである.相変わらず,レジスタンスの宇宙船や兵器はすすけた,あか抜けないものばかりだ.

惑星パサーナでのスピーダーチェイスのシーンは,どこか『ファントム・メナス』のタトゥイーンでのポッドレースを彷彿とさせるものだった.しかし,時系列的には60年近く前に開催されていたポッドレースが,通常の人間にはついていけない速さであるとの設定の通り,一つのミスが即死につながりそうな,狂ったようなスピード感にあふれていたのに対し,今回のチェイスシーンは鈍重で緊張感にかけるものだった(競技としてのレースと,戦闘とでは全く異なるのは理解ができるのだが).

ブレードランナー』と対照的な時間の描き方

別の映画の話を持ち出すが,『ブレードランナー2049』が『ブレードランナー』から30年後の世界を見事に描き出したのとは対照的である.旧作で「人間との見分けがつかない」ことが問題となったアンドロイドについては対処がされているし,あれだけの問題製品を世に出したタイレル社はとっくにたたまれているし,食糧危機という新たな問題も顕在化している.かつては追われる身であったアンドロイドが,旧型のアンドロイドを駆逐する役割を担っているほど,世界が変化しているのである. 

これも先ほどの「旧作のファンがうるさい問題」に帰着してしまうのかもしれないが,旧作の延長上にある物語にとどまってしまっているのが残念である.せっかく,新しい登場人物で,前作から30年以上が経過した世界が描かれるのだから,もっと新しく,今までに見たこともないようなものを観たい,と期待していた私は,スター・ウォーズファンとしてはわがまますぎるのだろうか.

最後に

以上のように,少し言いたいことが出てきてしまったが,それも作品そのものを楽しむことができたからこそ,空想上の物語にさらに空想を重ねてしまうのだ.つまらないものを見せられても,もっとこうだったら,こんなものが見られたら,と願ってしまうことなどないだろう.結論を言えば,『スカイウォーカーの夜明け』は壮大な物語によく終止符を打ってくれた.『最後のジェダイ』を観てからの約2年間のもやもやも,これですっきりした.スター・ウォーズの正史がこれで終わってしまうのはさみしい限りだが,過去を振り返ってばかりいるのではなく,自分はどうなりたいのか?を考え,そのための未来に向かって立ち上がることが大事なのだと,今作が教えてくれた.会社員となって数年が経過し,将来のこと,自分の役割のことをぼんやりと考えてしまうこの時期に,スター・ウォーズの完結作を劇場で観られたことは,人生で忘れない思い出となることだろう.

森博嗣『夢の叶え方を知っていますか?』

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作者の森博嗣という人について、SF小説を書く人だということしか知らなかった。
本業は大学の教員で、彼の小さいころからの夢である「庭に鉄道を走らせること」のために、資金を得る手段として選んだのが小説というだったというおもしろい生い立ちを知って、その彼の生きざまを綴ったこの本を読んでみたくなった。

面白いと思った内容

「夢」とは何か

例えば、犬は何かを食べたい、遊びたいという欲求に従って行動している。それと、自分の夢を叶えるための行動している人間との違いは何か。それは、自分の姿を客観的に見つめ、自分はどうあるべきか、どうなりたいか、という「姿」を思い描いているかどうかという違いにある。この点で、「のんびり暮らしたい」「おいしいものを食べたい」のようなものは「夢」というよりも「欲求」に近い。「子供を育てたい」というのも、人間の生き物としての欲求に従っているだけの可能性がある。

工作キットは夢をしぼませる

小学生の夏休みの工作を手助けするものとして、買ってきてそれを組み立てるだけで何かが作れる、キットがある。でもこれを作るだけでは、子供が何を作るか、どうやって作るかを考えるわけではない。それでは、子供の創造性を育むことにはならない。本来、夏休みの工作を通して育てるべきなのは、自分が作りたいもの、欲しいものを、どうやったら作れるかを考えて、そのために必要なもの、ことを考えて、調達して、作り上げていく、そのプロセスを進めていく力である。夢を抱くことの価値は、自分がしたいこと、欲しいもののことを考える、その楽しさにある。

そして、自分はどうするか

最近、昔からの友人と話していて、趣味や熱中できるものを失ってしまっていることに気が付いた。冬になればスキーをするけど、それも好きだからしているだけであって、何か夢があるかというとそうでもない。バイクに乗るけど、忙しくなると週末にも乗らなくなってしまう。

自分がしていて楽しいことは何だろうか。自分が得意なことは何だろうか。そういうものを大事にできていない気がする。だから、毎日が、今までの人生が中途半端になってしまっている実感がある。得意なことも、人より優れていることも何もないけど、できることをやってみようと思って、このブログを書いていくことにした。
これからは、こんな形で読んだ本のことを書いていったりもしてみようと思う。

結婚します。

インフルエンザを患って、火曜日から会社に出勤できていない。頭痛がひどくて何もする気が起こらず、横になったままテレビやネットの動画をぼーっと眺める日が続いていた。
それでも、熱が引いて頭痛も収まってくると、何もせずにいると退屈になってくるので、かなり久しぶりに記事を書いてみることにした(という動機で書くにしてはけっこう重い内容)

結婚します。2月に入籍予定です。

周囲からの反応

年末に実家に帰省したときに親戚の前で報告したところ、全員揃って「えー!!!」の声。というのも無理もなく、今までは親戚はおろか親にさえも付き合っている人の話すらしたことがなかったので、東京の大学に通っている間も、広島に来てからも女性と交際した経験さえないものだと思われていたらしい。(なのにPerfumeのライブのために沖縄に行った話とかはしていたから、そういうタイプの若者だと思われていた様子。心配かけてごめんねおばあちゃん。)叔父からは「従兄弟たち(5人)の間で最も結婚しないだろうと思っていた」の一言。
久しぶりに会った友達にも「就職する前に会ったときも結婚とか興味ないオーラ全開だった」と言われ、そこまでだったかと自分でも驚いている。

経緯

新入社員研修のときに一緒になった同じ会社の同期の女性と、2017年の11月から交際し始めた。昨年の3月までは遠距離恋愛のような状態が続いていて、毎週のように会えるようになったのはその後からだった。
昨年の間は、自分がクルマを持っていないこともあって、広島市内を歩いたり、カフェに行ったり、映画を観に行ったり、そんな日々を過ごしていた。毎週会えるだけでも最初は楽しかったのだが、そのうちに会えないでいる時間がさみしく感じられるようになり、夜に家に向かって歩いているときに、Perfumeの「微かなカオリ」の『二人でいられる時間は いつもすぐに過ぎて 一人家に向かう時間は長くて』という歌詞が身に染みるようになる(片思い曲だけどそこはご容赦)。
そして昨年の11月3日、付き合って1年になるこの日に、結婚しよう、という意思を伝えた。交際し始めて1年というのは早いかもしれない。でも、もう付き合っているだけの関係でいるのは終わりにして、二人でこれから先を一緒に進みたいと思った。

今後のこと

2月に入籍して、3月末から一緒に住み始める。二人で共用のクルマを一台持ち、自分はCB400に継続して乗る予定。

自分の短所と課題

これからのことを進めていくにあたって、どうしても克服したい自分の短所が二つある。

スケジュールを自分で考えて行動するのが苦手

昔から「いつまでにこれをやって、そのために何をやって・・・」という段取りを考えてスケジュールに従って行動するのが苦手で、まず行動してみてその場で考えて、ということをやってしまいがちになる。そのために、必要なことを後回しにしてしまったり、行動がぎりぎりになったりしてしまうことがあり、そのことで彼女にも何度も迷惑をかけてしまっている。
これは仕事でもよく注意されていることで、上司や周囲の人に任されたものをうまく提供できないことが多いので、これは間違いなく自分の欠点なのだと思う。
幸いにも、彼女は自分のこのような欠点を受け入れてくれて、プライベートのことなんだから、練習だと思ってやってみよう、と励ましてくれている。自分はいま何に取り組むべきか、を客観的な目線で考えられるようになりたい。

自分の意志をはっきり持ち、それを主張できない

今までの人生で、誰かと意見をぶつけあうような経験がなかった。というより、意見が衝突するなら、自分が引けばいい、という選択をすることが多かった。就職するときも、両親が自分の行きたいところに行けばいい、と言ってくれたので広島に来ることになったけど、それももし「実家の近くで就職してほしい」と言われていたら、自分の思いを主張せずに、関東で働くところを探していたかもしれない。
でも、これからのことはあくまで自分のことなので、「自分はどうしたいか、どうありたいか」を決めたうえで、そのためにどうするかを考えて行動できるようにならないといけない。
そのためには、自分が本当にしたいこと、求めることに、自分が正直にならないといけないし、どんな場面でも自分の考えは主張しないといけないと思う。

どちらも、私生活だけではなくて、仕事でもよく怒られていることなので、これからの準備を進めていく中で、自分を少しずつ変えていけるようにしたい。大変なこともあるかもしれないけど、受け身になることなく、そして楽しむ気持ちを忘れずに行こうと思う。

一応目標の点数を達成できたけど

6月に受験したTOEICの結果が返ってきた(のは1か月前の話で、今日になってここに書こうと思っただけ)

LISTENING: 395 (Percentile rank: 68)

READING : 425 (Percentile rank: 92)

TOTAL SCORE: 820

一応、目標としていた800を超えることができたので、結果をネットで確認したときは研究室にいたにも関わらず軽く声を出して喜んでしまった

ただ、正答率を見るとまだまだまだまだ上げられる余地があると思える

スコアはあくまで偏差値みたいなもので、正答率がそのままスコアに換算されているわけではないことがよくわかった

今回は新形式になって初めての受験だった

リスニングは特に形式が変わったことで戸惑うところはなかった(というかあまり実力がないので詰め切れていないからそう感じるのかも)けど、リーディングの形式が変わって、体感としてかなり厳しくなった感じがあった

単純に、文法問題が減って、その分長文を読む問題が増えているので、従来通りの時間配分の意識で解くと最後のほうで全然時間が足りない状況になる

従来形式に対応した問題集を解いて、従来形式であればなんとか時間内に解答し終える速さの感覚を身に付けたつもりだったけど、本番は時間が足りなくて8個くらいは問題を読まずにマークした

特に、今までメール+メモ、みたいな二つの文章を読む形式だった問題が、メール+メール+メモ、のように3つの文章を読まないといけない問題に変わって、答えの根拠がどこにあるのかを特定するのがすごく大変になった

効率のよい方法論があるのかもしれないけど、自分としては真正面から大量の文を読んで正解を導く以外に方法がないように感じた

 

終わったあと、読む、聞くの力が数段底上げされないとこれ以上のスコアは望めないという実感がかなりあった

そのためにはやっぱりもっと英文に触れないといけないし、今までやってこなかったような勉強も必要になるのかもしれないと思って、でも結局思うだけで何も状況を変えられないうちに受験から2か月が経ってしまった

目標を失ってしまっているのも事実だし、これから何のために、何に取り組んでいくのかを考えておかないと、これから研究も忙しくなって、何もせずに学生最後の年が終わってしまうような気がする